昭和41年01月10日 朝の御理解
信心の稽古をこうやってさせて頂いておりますと、今まで気が付かなかった、今まで知らなかった、いわゆる信心の新知識というのを、段々身に付けて行く事が出来る。信心が色々分からせて頂くのである。本当の信心が、本当の信心がとこう、本当の信心に向かってお互い進んで行く訳じゃないけれど、その分かって行くということ、知識が増えて行くということが大事なんですけれども、それが分かっただけでは、大したことはないと言うこと。いや本当のおかげにはならないと言う事ですね。
私共こうやって日々、いわゆる神様の前に専念させて頂き、様々な問題を通していかせて頂いて、色々分からせて頂くんですね。本当に色々分からせて頂くんですけれども、そりゃ分からせて頂いたことを、言うなら、だから皆さんに伝えておる。はあ、そんなものかなぁと、もう本当に日々ですね、それがあるです。そんなものだろうと言うような事が。ですから皆さんは、いわゆる今まで聞かなかった。今まで知らなかった事が分かったら、その分かった事をですね。
日常生活の上に、行の上に現して行かなければならんのでございますけれども、その現して行こうと思うのだけれども、現せないところに、人それぞれの巡りを感じんわけにはまいりませんですね。折角信心させて頂くのでございますから、皆さんよくそんな御届けをなさる方があります。ね、どうぞ今日も、神様よろしゅうお引き回しを頂きますように。又私も、そういう人たちのそういう難しい問題や、自分の人間心で受ける事ちゃないから、神様のお引き回しを頂かにゃでけんもんなと私も言う。
又皆さんも、お引き回しを頂きますうようにと言うて願われるでしょう。ところがその神様のお引き回しを頂かずにですね、いわゆる巡りのお引き回しを頂く。私今日、御神前に出らせて頂きましたらですね、えっとこれはあの、何、どう言うような事か、思ったんですねあの、あれはあのお芝居に、庄和太助の「愛馬の別れ」と言うのがあるでしょう。テレビか何かでやった事ないでしょうか。ああいうドラマになった事があるでしょうね。あの、馬と別れて色んな、あの、参ります所の場面なんです。
それで私はその、ははー愛馬と別れるという事は、まぁ自分の、はぁ今日は、今年は馬年だから、そんな事もちょっと感じたんですけれども、次にいろいろ頂くことから、まぁ察した事なんです。次にはある人がですね、豚から引き回されたりて、豚から。豚は肉つきのよい、そん豚が、もう力が強うてね、引き回されちゃうんです。次にはですね、犬から引き回されてちょる。
大きな犬をもうこう、その綱引っ張っちゃる、ところが犬がこうこうするもんだから、こう引っ張りなさるけれども、犬がその人を引っ張り回しちょる。果ては牛が。馬が、その人を引っ張り回しておるのです。いわゆる、牛やら馬やら、ね、豚やら、犬やらからお引き回しを頂いておる。引き回されておるという事です。ね、それを言わば申しますと、我情我欲に引き回されておるという事じゃないでしょうかね。
どうぞ神様今日もよろしゅうお引き回せを頂きますようにと、願わせても貰う又取り次がせて頂く私も、そうせんな、そういう難しい問題が見える、ね、そりゃ人間の知恵やら力で出来る事じゃないて。ね、出来る事じゃないけれども、その、そこに御取次を頂いて神様のお引き回しを頂かなければ出来るこっちゃない、とこう私も皆さんも思うておられるのだけれども、実際はどういう事かと言うと、そういう様々な、いわゆる犬やら、豚やら、牛やら馬やらから引き回されておる。
それを私は、我情我欲から引き回されておるという事になるのじゃないかと、こう思うですね。私共の心の中からです、例えば、犬と言えば煩悩と神様が教えて下さる。豚といや、汚い心とこう仰る。牛といや、家の巡りと仰る。馬といや、お互い心の中に持っておるいやしい心だとこう仰る。だからそういうような心があったんではです、ね、神様の引き回しを頂く、又神様が引き回して下さろうとしてもです。
この巡りの方が強い、我情の方が我欲の方が強いと、そちらの方へ信心をしておりましても引き回される訳なんです。そこでどうしも結局、この巡りの方の、言わばそういう汚いものと、を少しはきつくても、それこそ「愛馬の別れ」じゃないですけれどもね。人間にもの言うように、こういうような因縁になってるんだから、お前とは別れなければならんぞと。と言うてそのアオという馬に、その涙を流しながら、別れて行く場面があるように、そんなに実は別れにくいものなんです。
実を言うたら、人間の汚い心と背斬るですね、別れることが辛い。これを取ってしもうたらです、ほんに馬鹿んごつなるだせんじゃろうかと言うて、所があるです。いやこれを取ってしもうたら、人間の楽しみと言うのが無くなってしまうんじゃなかろうか、とすら思う事があるです。けれどもそういうようなものから、引き回されておったんでは、一生うだつが上がらんという事。
信心とはそういうようなもんで、本気で取り組むことなんですよ。どんなに信心が分かってもですね、新しい知識が身に付きましてもです。私はあの、色々な事が分からせて頂くということはもう、椛目の場合はですね、何と申しましょうかね。分からせて下さることがですね、もう実際にね、おかげと直結するような事を、何時も神様はヒント与えて下さるようですね。椛目の場合は。
例えば教学的な、こう、そういうようなものが、説明する。説明的な知識ではなくてですたいね言うならば。はーほんに今まで気が付かなかった、そうでしょう、とこう言われるような思わんような、色んな事を神様、そういう意味でまぁ知識を日々与えて下さるんですね。いわゆるおかげと直結しておるんです。いわゆる徳と直結しておるんです。そういう御理解を皆さんは日々頂いておられる訳なんですから、ね、
おかげも頂けれる、徳も受けられるのだけれども、いわゆる我情我欲に引き回されて、本当のおかげにならず、本当の徳にならんでおるということが。いわゆる真相じゃないかと、こう思うんですね。色んなことが分からせて頂くと言えば、昨日も私色んなことを分からせて頂いたんですけれども。ん、昨日は、勿論日曜でもございましたし、お参りが、もうとにかくここのお広前も朝からもう、賑わいました。もう、上のほうからら行きますと山口から入って、下関、それから小倉から参って来ておりました。
飯塚から参って来ておりました。福岡からも何組も参って来ておりました。それから、熊本からも街からも田舎の方からも参って来ておりました。それから、島原からも来ておりました。長崎県です。それから、とにかく、これはもう九州中、各県から集まっとる、こりゃもう鹿児島と宮崎が来とらんだけだね、と言うくらいに集まっとったです、昨日は。しかも、それは時を大体同じようにしてから、その何十人の人達がここで、その一生懸命御理解を頂いているんですね。
で、その時に頂くこと、あの、そのことを私、こりゃ何か神様の御都合だなぁと思ったですね。そういうその、県外やら、皆さん遠方からの人達ばっかりが一緒に、そのほんなら自家用車ですから、家族何人連れと言ったようなばっかりですから、そのここいっぱいになるわけなんですね。で、そういう風にしてから、まぁ本当にこう言う椛目に、片田舎に、そういう遠隔地から皆集まってお見えられてですたい、そりゃやっぱ何かここにあるから参って来るんですよね。
しかも神様がこう言う風にしてこう、時をおわずしてそういう方達ばっかりをこう集めなさるという事は、それは御神意のある事だと私は思って、その事をお礼申させて頂いておりましたらね『これは椛目の花だ』と仰りました。して見ると皆さんこうやって朝晩にお参りさせて頂いておる皆さんは、椛目の実だという事になるわけですね。ですから一つ皆さんどうぞその椛目の実であるその、実の実体をですね。
どうゆうようなまぁ皆さん自分達であるかという事を一つ本当に検討してみなければいけないと思うですね。確かにやっぱ、本当に花の、お広前に花が咲いとるようです、ね、遠隔地からでも来る人達ですから、やはり正装をして来とりますでしょうが、男でも女でも。そりゃ華やかな雰囲気がお広前いっぱいにあるんです。その中にです、あの、下関の中林さんが正月から初めてのお参りをしておられました。
まぁ大変広大なおかげを頂かれましてね、あの、御主人が今年は78歳になられますが、もうそれこそ席の暖まる暇もないように全国をまたにかけて、あちらこちらにお話しに回っておられますそうです、今。本部の御用要員でもあります。それこそ息子さんは、本部の青年会の、金光青年会の副委員長をしておられます。もう一家を挙げての昔からの信者さんなんです。ね、私は何時もあの、まぁおかげを頂くならね、おかげを頂くならまずおかげの受け物を作らにゃいかんと言うでしょうが。ね、
もうとにかくまず何と言うてもおかげの受け物をね、頂かにゃでけん。受け物なしにおかげ下さいっと言ったって駄目だと。言うけれども、これはですね、ある意味合いでは、まぁちょっと話が分かりやすく、多分、そう申しますけれども、ある意味合いではこれは椛目だけのことだと私は思いましたですね。どんなに素晴らしいおかげの受け物を持っておってもです、それに取り次ぎいれてやるところの力がなかったら駄目だと言う事です。私昨日はそのことを分からせてもらいました。
してみると皆さん、そのことだけにでも皆さんはですね、本当言うたら御礼を申し上げなきゃいけないと言うことなんです。中林さんの場合、何十年、しかも本当に実意丁寧の、御主人なんかっていう人はもう本当に実意丁寧の権化のような感じの方ですね。そりゃもう息子さん達は、どこどこの先生あたりじゃ勝たんぐらいに、お話は良いし、そりゃタイプも堂々たる人で、やはりその青年部の、本部の委員でもなさるくらいですからね。それでもどうにも出来ない問題があったと言うことです。
その方の娘さんが、生れつきのに目が見えないちゅうね、ならいつもお話致します。けどもその我が子であり、又は自分の気持ちがです、どうかしてその、この目を開けたい、目を開けたい、そのおかげを頂きたいと言うて、それこそ信心にはもう高尚なのですから、打ち込んでお参りもなさったんだけれども、どうにも出来なかったでしょう。あらゆる医者に見せられたけれども、もう今の医学じゃどうにも出来ないと。
ただ1、2軒です、とにかく言われる事は、まぁ15、6ぐらいになって体力が出来てですね、手術をしてみるより他にはない。と言うようにしか言われなかったんです。一軒の、その眼科のお医者さんだけがですね、そのまぁ、そう仰れば、なら手術をしてみる、見ましょうかと言うような所が一軒あったです。ね、ここに話を聞いてから、お願いに見えました時に、この目は神様は開くと仰った。
このまま放っておけばね、もうこのまま丁度、花で言うなら固いつぼみのようなもので、その切花模様のようなもので、もうそのままこれは萎むか、落ちるかする他にないて。けれどもお恵みの水に付けておれば、必ず開花すると仰った。開くと。実はここに、月に何回かお参りをなさっておられましたが、もうその間でもです、今日もその一人のお医者さんが手術をしてみると言うもんですから、やっぱりしてやりたいと言うのが親心なんです。もう何回も何回もお願いに見えました。
いや手術はなさいますな。と言うて私は返す。ところがもう、又電話がかかってくる。それこそもう何回戻したかね、久富先生も何回もそのお取り次ぎされたんですけれどもあの、んーなら、もぁ病院に行ってみてご覧なさいというてですね、病院に行かれたところが3回でしたかね、あの手術をするようになって、出来なかったのは。こりゃもういよいよ神様が手術をさせないという働きだなぁという事を、言わば分かったです、私は。ですからもう極力、その手術をなさらんが良いと言うた。
ところが4回目か5回目だったでしょう。もう結局なら、先日もうせなければならなくなってから、片一方の目を手術なさったんです。ところがその、とうとうそのまま失明いたしました。手術した方は。それから20日ぐらいして間もなくですね、片一方の目が見えだしたんです。ある時に、こう手まねを、こうこうこうと、こうしよったところが、それに向かってから、まぁその這うて行かれるわけですね。
あらこの子は目が見えるようになったっぢゃろうかっち言うてその、もう本当にビックリしてからお礼に出て見えましてから、段々おかげを頂いて、昨日はあの、この七五三にですね、写真を写して、あのカラー写真で、可愛らしい写真が出来て来てるんです。先生、あんたのところのご結界の引き出しにでも入れておいてから、あの祈って頂きたいというてから、見えましたが。おかげを頂いて、開眼のおかげを頂いて、もう今は一人で歩けるくらいにおかげ頂いておる。
少しこう写真でもキョロキョロとこう見えるけれどもです、言わば開眼のおかげを頂いておる事だけは間違いないです。そういうような事の中からです、いよいよ分からせて頂く事がございますですね。例えばです、おかげの受け物はあってもおかげは受けられないと言うこと。これは私が何時もそういうお知らせを頂いた事がございましてから、皆さんにも聞いて頂いたことも何回も有りますけれども、天地の親神様のおかげと言うのは太陽の光りのようなものだと。
世界中の氏子におかげをやってあるというおかげなんです。それを取り次ぎ金光大神のお徳によって、その太陽の光というものはここに集中する事が出来る。言うならレンズのようなものだとこう仰る。そこに信心のある者とない者の違いが感じられるでしょう。分かるでしょうね、レンズを持ってこういうここに集めますと、ここに光を集めることが出来るです。その光を取り次がせて頂くのが、取り次ぎの役なんです。
ところがんなら、そうなんだけれども、この取り次ぎの、取り次ぎのものがです、そういうレンズではあっても、それと反対のレンズです。ね、引込んだあのレンズです。そしたら、ここからこういう事になって行くんです、光が。もうあの教会では、あの人がおかげ頂かれらっしゃれん様なこと無いとばってん、おかげ頂けんと言う人がありましょうが、何十年間苦しみ続けておるという人が。これはこうなんです、やはり。
ですからこういうような風にして、ここのレンズによって天地の親神様の光を集めて、ここにおく、光を送るところに巡りがあれば、その巡りが焼ききられるわけです。真っ暗い、例えばあの、墨で書いたのを何かをこう持って行きます、それが先に焼けるでしょうが。だから皆さんの場合でん、皆さんがおかげ頂きたいと願われると、まず巡りのお取り祓いに掛かられるということです。
ですから、痛いことでも痒いことでもです、困ったと思うほどしのことならば立派にその取られるです椛目の場合は。それを、どうしと事だろうか、何時まっでんおかげ頂ききらんじゃろうかと言うような事言うとったって自分のおかげにはならんという事。そこんところを、分かりやすく、「この方の道は喜びで開けた道じゃから」と、というようにその事を、喜んで受けさせて頂く事を、まぁ教えて下さるわけなんです。
ですからめぐりのお取り祓いを焼ききる事の働きもあるけれども、おかげを渡す事の働きもあると言う事。下関の中林さんなんかの場合、その中から分からせて頂く事は、そういうような事と同時にですね、もう一つここに分からせてもらう事は、この本当に例えばもう少し取り次ぎの者の言う事に、その自信を持ってと言うか、ままよ「ままよとは死んでもままよの事ぞ」と言ったような信心が出来たら、優雅なおかげ頂いておった、だろうと言う事なんですね。
その為には神様は様々な働きを下さっておるんだけれども、それを働きをと気付かないわけ。言うならば、今日の御理解で言うと、そのなんかの、に、他のものに引き回されておられた、と言う事になるわけでしょう。神様のお引き回しを頂いておる、病院に行っても良いけれど、手術という時に行きゃ、先生の方に都合があってから出来ん。いよいよ手術台に上がったところが、手術する機械の方にちょっと狂いがあってから、今日は出来んと言ったにです、もう神様引き回しておられるのだけれどもです。
心の中に我情が有る、どうか手術をしてもらう、開きだんせんじゃろうかというその思いがですね、そういう今度はもうそれに引き回されておるのにも関わらず、結局失眼しなければならなないような風に引き回されてしまっておられると言う事。そんなら神様は何故20日前にです。開かるようにして下さらなかったと言う所に、ここに一つ分からなければならん事が有るようですね。
そういう色んな、微妙なことがです、色々こう分からせて頂くのでございますけれどもです。神様に十二分にお引き回しを頂くことのために、まず我情我欲を取る事に、本気で精進しなければならないかと。簡単に言うのだけれども、その我情我欲の中には、馬もあり牛もあり、ね、犬もありゃ豚もあると言う事。これにまだ猫ぐらいも入っとりますでしょうね。ですからそういうようなものとこう別れて、そういうものを切り放して行くところに『日々の改まりが第一』と仰るところが、私はあると思うのです。
私が信心を頂くようになって、何と別れたか。何を改めたか。一つ思うて見てご覧なさい。馬と別れたか。豚と別れたか。ね、牛と別れたか。ね、犬と別れたか。なかなか別れが辛くて別れが出来とらんでしょうが。それではやっぱり、人間的にそういうものから引き回される。恐れがあるから、そのことに取り組まなければならない。ね、そして本当に神様お引き回せを頂かせて頂くということがです『わが身は神徳の中に生かされてある』喜びを謳歌することが出来るのです。
ほんに神様のお引き回しを頂いておるんだな、神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃないんだなぁ、という信心の喜びに浸らせて頂くことが出来るのです。それならやはりです、そういう様々なものにお引き回されておるのだけれども、神様はどうかまでしてです、その中林さんのその中から感じられる所に。神様がそれでもやはりおかげの受け物、何十年の信心の功徳によっておかげを下さろうとする働きがあることを、その中から、おかげの中から分かる事。
分かるでしょうが。私そこ説明がなかなか、よう出来ませんけど、お話を聞いておられてそこんところを感じられるでしょうが。神様のお引き回しを頂かなければ出来ません。本当の幸せって言う事になりません。自分の思いを捨てとかなければ、本当に我欲を捨て取っておかなければ、言わばそれを捨てたり切ったりする事にです、本気で一つの元気な心を持たなければならない、と言う事なんですね。
それで私達の場合です、神様がですね、自分では切り取ることが出来ん。自分ではなかなか出来んけれどもです、私共が気が付かんのにですね、あっという間に切り落として下さるような働きがあると言うことです。ね、だからそこん所を分からせて頂いておくと、切り落とされた時に、「あっ有り難うございます」が言えるんですよ。それを気が付かんでおるとです、切り落とされたとこだけに、どうしてじゃろうかと思わんならんです。だから分かっとかにゃいかんっち言う。
今日はそういう事も一つもう一つ分かって頂きたいです。そこんところだけ。年末に高橋さん、これあの福岡博多の高橋さんがです、正月のもう年々こう正月には一番分かるですね、おかげ頂いておる具合が。この前は前の年は三十万じゃった、その次は四十万じゃったと言う風にこう売り上げた段々増していくんですね。おかげ頂いて行きよる。それで先生今年はその仕入れのことについてから、お伺いがあったんです。
そしたら神様が、つういっぱいな、仕入れられるだけ仕入れておけというようなことだったんです。それでもう沢山その魚ですたいね、仕入れですからお寿司屋さんですから、仕入れられたんですよ。ところがどっこい去年の十万円も少なかったって売上が。 これなんかはですね、私が今日いう、神様がですね、もうしらん間、あのこちらが有無を言わさずに切り取ってくださったというものを感じますですね。
神様にお願いをさせて頂いてです、そして自分の思い通りにはなっていない、いやそれとは反対な事になっておる、こういう時なんかもう完全に巡りのお取り祓いにかかって下さっておる時なんですよ。ですから、神様がそうに違いはない。巡りお取り祓い頂いて有り難い。巡りのお取り祓いと思いますというような風で、そこを認めて行かなければ、巡りのお取り祓いにはならんという事です。
お願いしとったとにですね、どうしてこげなことになったとじゃろうかと。却って去年よりか、売り上げが少なかったと。しかも神様が沢山仕入れとけと仰るけんで沢山仕入れとっとが、こりゃどげんなるとじゃろうか。こういう風な働き方では、それがお取り祓いがお取り祓いにはならんて。お願いをさせてもらい、お取り次ぎをさせて頂いてです、しかも中味まで言う、そういうお取次の生き生きした働きのあっておる中に、お取次を願ったのでしょうが。
ちょっと考えたんですね。これもこれだけの材料がどうなるじゃろうかとこう思うたけれども、しかし神様の御都合に違いはないという風に、まぁ半分ばっかり思うたっち。半分ばっかりは神様をこう、でも神様を信用が出来んと言ったような思いも少しあったんでしょう。ところがですね、今年はね正月後からずっとその上げ値だそうです。まぁ昨日お届けに来て見えて、見えておられました
(途中切れ)